メシア的なもの――メシアの非到来――

◆ユダヤ教のメシアニズムは(一部の注釈者においてだが)、出来事[evenement]と非到来[inavenement]との関係を予感させてくれる。もしメシアが、乞食や癩病患者に混ざってローマの門のところにいるとすれば、彼はその匿名性によって守られていると考えることもできるし、そのためにやって来られなくなっていると考えることもできる。しかしまさに、彼はメシアであると承認されてはいるのである。問いかけへの強迫に押されて、彼にこう尋ねるひとがいるのだから。「あなたはいつ来るのですか?」 したがって、そこにいる[etre la]という事実は、やって来たということ[venue]ではない。そこにいるメシアのそばで、つねにこの呼びかけが響いているのである。「来てください、来てください。」[≪Viens, Viens.≫] 彼が現前しているということは保証にはならない。未来であろうと過去であろうと(メシアはすでにやって来た、と少なくとも一度は言われている)、彼がやって来るということは現前には対応しないのである。呼びかけでも十分ではない。人間の努力、道徳、悔悟といった条件は周知のことだが、依然として知られていない条件もある。そして、「あなたが来るのはいつですか?」という問いに、メシアが、「今日だ」と答えることがあるとすれば、確かにこの返答は印象深いものである。したがってそれは、今日なのだ。それは今であり、つねに今なのだ。待つことはまるで責務のようになっているが、待つ必要はないのである。では今とはいつのことなのか? 通常の時間には属さず、それを必然的に揺り動かし、維持せずに、不安定にする今である。とりわけ、テクストの外のこの「今」が、厳密な虚構である物語レシのこの「今」が、諸々のテクストに送り返し、それらのテクストが再び「今」を、実現可能―実現不可能な諸条件に依拠させてしまうということを思い起こすならば。「あなたが私に注意を払いさえすれば、あるいは、あなたが私の声を聴こうとするならば、今である」。結局のところメシアには、キリスト教の位格とは反対に、神的なところはまったくないのである。慰める人、正義の中の正義[le juste des justes]である彼は、自分が一人の人物 [personne]であること、特異な何者かであることにすら確信がない。ある注釈者が、それはもしかしたら私であるかもしれないと言ったとしても、彼はそこで高揚しているわけではない。誰もがメシアであることができ、メシアでなければならず、しかしメシアではないのである。というのも、ヘーゲル的な言葉で、「絶対的外部性の絶対的内面性」として、メシアを語ることは不適切であろうからだ。メシアの到来はいまだ歴史の終わりを意味するわけではないのだから、なおのことそれは不適切であろう。歴史の終わりとは、いかなる預言も告げることのできないような未来の時代が廃棄されることである。次の神秘的なテクストのうちに読むことができるように。「どの預言者も――例外なく――メシア的な時代[エポケー?]のためにのみ預言をしてきた。未来の時代については、神よ、あなたの外にどんな目がそれを見たでしょうか。あなたは、あなたに忠実で、待機中のままでいる者のために行動するでしょう。」(レヴィナスとショーレム)

Maurice Blanchot, L'Ecriture du desastre, Paris, Gallimard, 1980, pp.214-216 より。

翻訳ページへ戻る

topへ
掲示板へ