「メルヴィルの魔法」(『日曜風景』誌連載、<本>、モーリス・ブランショ、19451216日、3頁所収)

( << L'enchantement de Melville >>, Paysage dimanche, Les Livres, par Maurice Blanchot, No. 27,  16 decembre 1945, p. 3.)

 

メルヴィルは、自分の著作を待ち受けていた失敗に苦しんだ。しかしもしかしたら、今日彼の著作が浴している栄光には、それ以上に苦しむかもしれない。この比類なき作家には生の力強さと荒廃の力強さとが備わっていて、この二つは切り離せないのだが、しかし一緒にして理解することもできない。彼の魔法は、その輝きをいつも曇らせるあの暗く霞んだ面と、暗さをいつも吹き飛ばすあの光り輝く面とに由来している。今日――特にフランスでは――、われわれはそのような文学の不幸な側面にとりわけ敏感になっている。しかし文学はまた、その豊穣さ、寛大さ、楽天的な狂気においても、やはり同様に並外れてすばらしいものである。文学が悲劇的であるとすれば、それはおそらく、歓喜に似ていながらしかし不幸の領域で演じられる、あの高揚のためだろう。それは、失敗に対しても諦めに対しても、一種の勝利の色を与えるのだ。

 

ピエール・レリス氏が、『魔法群島』(ガリマール社)につづいて暗黙のうちに完璧な翻訳をした賛嘆すべき短篇『書記バートルビー』は、どちらかといえばメルヴィルの暗い側に属する。これは、もっとも単純な、そしてもっとも絶望的な物語である。バートルビーは、とある代訴士事務所の代書人である。彼の仕事は完璧である。ある日、割り当てられたある仕事に対して彼は、穏やかだが揺るぎない声で答える。「できればそれは、したくないのです。」なぜ? 彼の答えがその理由のすべてだ。他に理由はない。彼は「できればしたくない」、それだけなのだ。ひとは何かを好み始めると、希望なき道に入り込むことになる。やがて、彼はできれば代書をしたくなくなり、同時に、できれば帰りたくなくなる。彼は昼も夜も、ついたての陰に立って、壁にふさがれた窓の外を眺めながら、そこにとどまっている。彼を正道に連れ戻そうとむなしい努力をする雇い主の諌言に耳を貸すこともなく。どうすればよいだろう? 代訴士は住所を変え、書記は刑務所に連れて行かれる。そこで、動こうとせず、「彼はできれば食べたくない」、そして彼は、彼が生きてきたあの同じ孤独と同じ沈黙のうちに死ぬ。

 

メルヴィルの芸術は象徴の方に向きながら、諸事物と生の中に深く入り込んだ。メルヴィルは、解釈すれば裏切ることになり、しかし、意味を予感しないとすれば取り逃がすことになる。ここに、彼に固有のあの二重性のもう一つの面がある。バートルビーの物語を語るのは彼の雇い主である。悲劇的なのは、この雇い主が実にお人好しで、部下を理解し助けるためにできることなら何でもすることである。彼は、この不幸な男が落ち込んでいる孤独の深淵を察し、そのおかしな振る舞いを黙認し、尊重する。こうしたことはすべてむなしい。そこを越えるともう戻ってくることがかなわないようなある一点というものがあるのである。消えゆこうとする男の決定には、正当化できない好み以外にもう何も許さないような断固たる沈黙には、博愛は無力なのだ。これは、他の人々から一度も離れたことがなく、まだコミュニケーションをとることも可能な、穏やかで落ち着いた者、しかしもはや助けることのできない者なのである。こんなことがありうるだろうか、こんなことが耐えられるだろうか? 不幸は確かに、この絶望する男の側にあるのだが、しかし、彼を絶望から救うことができないあの楽天的な好人物の側にも、同じくらいあるのだ。

メルヴィルは、博愛の夢が無数に存在していた世紀と世界に属している。彼はそうした夢を共有したが、しかし同時にそれらを越えて進んだ。彼が和解を試みるのは人間とだけではない。彼は船員としてのあり方によって原初的な深みと接触し、この領域においてある経験を追求したのである。彼の作品はその経験の異質さを垣間見せるものであり、それが彼に神秘的な性質を与えている。『モービィ・ディック〔白鯨〕』の現象はその経験に由来している。『魔法群島』の描写の中にもそれが見出される。

 

これらの群島は想像的なものではない。不毛で居住できないガラパゴス諸島は、確かにメルヴィルが近づき、目にし、われわれが地図上に認める土地であるが、しかしまた、荒れ果て、かつ光り輝く彼の魂の、彼の外にある存在でもある。明らかに、彼が本当に彼自身に出会ったということが感じられる。ある別の男の姿においてというのではなく、火と灰、孤独と煌きの、これらの土地の姿において。『白鯨』がその根源的な謎を見せてくれた、あの孤独な嵐の現実におけるように。彼の目には亀が、一方は醜悪な、もう一方は輝かしいその二重性において、船長や代将が難破後、時には死の前にこうした閉じ込められた生物にゆっくりと変化したものに他ならないと見えるように、彼は、自分自身が溶岩に、石だらけの群島に、果てなくつづく海に変貌するのを見たのである。彼を同時に過度の不毛と過度の生に、驚くほど荒廃しているけれども途方もない力強さに結びつけるものこそ、彼の魔法の固有性なのだ。不毛さが繁茂、増殖、肥沃さとなるような世界、彼は永遠に、そのような世界の尺度を探しつづける。

 

 

ナサニエル・ホーソーンは、ある温和な小ブルジョワの物語を語っている。ある晩彼は、短い散歩のつもりで家を出て、そのまま帰らず、隣りの地区に身を落ち着け、身元を知られることなくそこで三十年を過ごす。バートルビーは、同じ面白みを持つこの物語を思わせる。つまり、説明できない、ということである。それは、『鐘塔』(メルヴィル、ピエール・レリス訳、フォンテーヌ社)という短篇によって立ち返ることができるのだが、この偉大なアメリカ人作家のいくつかの幻想的物語にもいえることである。塔の上で巨大な大時計を組み立てるこの機械技師、あらゆるメカニズムを凌駕するメカニズムとの彼の密かな闘い、作品に対する最後の不注意、しかしその作品はもはや不注意も忘却もする余地はない、こうした要素はすべて、芸術とその揺れ動く驚異的な力というテーマに、他に例の見られぬほど惹かれていた作家、ホーソーンの物語の中にも見出される。

メルヴィルの固有性は、ここでの真の秘密が発明家のそれでも彼の冒険のそれでもなく、むしろ世界の外にある彼の砦、彼が働いている塔の上でのその孤独な生、そして特に、彼が数時間装う神の敵の、その謎めいた性質だということである。メルヴィルによる創造物はほとんどすべてが、明らかにならず、<悪>と<善>の間で永遠に躊躇いつづける力強さを備えた曖昧な顔をしている。モービィ・ディックは、生なのだろうか、死なのだろうか? そして、曖昧さの人ピエールの左右には、彼が妻だと思っているあの妹、そして妹として彼と共に暮らすあの婚約者のうちに、夜の天使と光の天使、嘘の天使と真実の天使がいるのではないか? それらは、彼が完全に同定することも欺くことも従うこともできない純粋かつ不実な者たちであり、それらを明かす日の光から永遠に隠れているのではないだろうか。

驚くべきものにはすべてカフカの名が関わりあいにされる今日では、カフカの経験とメルヴィルの経験が近づけられるのは避けられないことである。しかし、全力で謎を比較しようとするならば、『魔法群島』の著者が想起させるのはむしろロートレアモンである。というのも、ロートレアモンはメルヴィルと同様に、堕落する生や解体する現実という相においてではなく、生命力の奇蹟として、絶対的な否定の只中での汲み尽くせない猛り狂った肯定として、破壊と悪を構想したからである。

 

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