Francis Marmande, «Le mot de passe » in Lignes, No.11, septembre, 1990, pp. 106-113.

フランシス・マルマンド  「パスワード」『リーニュ』19909月号ブランショ特集所収

「未知の自由の空間……」

『明かしえぬ共同体』の最後で、モーリス・ブランショは、あまりに繰り返し語られてきたと彼が考える、ヴィトゲンシュタインのこの教えにたちかえる。「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。」 彼はその逆説、語ることなく沈黙することの不可能性を強調する。「しかし、いかなることばで語るのか? それはこの小著(マルグリット・デュラスの『死の病い』のことである)が他の書物に委ねる問いの一つである。だがそれは、他の書物がそれに答えるためというよりは、それらがこの問いを担い、そしてそれを引き継ぐためである。そうすればやがて人は、その問いがまたひとつの逃れえぬ政治的意味をもつということを見出すだろうし、その問いは私たちが現在という時から関心を失うことを許さないということを悟るであろう。現在、それは未知の自由の空間を開きながら、私たちが営みと呼ぶものと無為と呼ぶものとの間の、つねに脅かされつねに期待されている新たな関係についての責任を、私たちに担わせるものである」[1] [2]

ブランショが、ジョルジュ・バタイユ(『否定的共同体』:「共同体をもたない者たちの共同体」)とマルグリット・デュラス (『恋人たちの共同体』)とを通して語る共同体は、あらゆる意味において口に出せない〔明かしえない〕ものである。それは、過剰のために逸れるように、まず、告白というものから逃れる。 共同体が身を守るために、告白に身を委ねるのを拒むからというのではなく、告白が、共同体を消滅させるものだからである。告白は、秘密ではないようなその秘密と、宣言されるべきではないその絆を消してしまう。この絆は、それを妨げるもの、つまり恋人たちの耐えがたい過剰や、死を与えられることにおいてもっとも強烈に明かされる。おそらくここに、『死の病い』の厳しい政治的意味と、バタイユの未完成だが有限の問いかけがあるのだ。その意味と問いかけについて、ジャン・リュク・ナンシーは『無為の共同体』において、コミュニケーションの経験と要請を分析している。


愛の秘訣

海に面した部屋の閉じた空間。ブランショは『死の病い』を、ある試みの祝福として捉えている。「彼女は尋ねる。試すって何を? あなたは言う。愛することさ。」さらに先で、「愛するという感情はどこからおとずれるのか」という問いには、「すべてから……死の接近から……」という返答がある。試みは、恋人たちの結合の、繰り返された、荘厳な、演出された失敗を祝福する一つのやり方である。その失敗とは、その真実、「つねに完成しないことで完成するこの結合の嘘である。彼らは、それにも関わらず、何か共同体のようなものを形作るのではないだろうか? むしろそのゆえに彼らは一つの共同体を作るのだ。」この、何のためでもない接近、空虚であるだけ一層絶対的なこの内密性が、彼らを避難させる。何から避難するのか。 「融合的あるいは聖体拝領的相互理解の喜劇」、この、嘘のうちの嘘を演じることから避難するのである。それが、『死の病い』の筋立て――男が、売春婦でもない女に、報酬を払えば、彼を愛する能力や彼を愛したいという望み以外にはなんでも要求できるというこの契約――に、この葬送行進の雰囲気を与えているのである。「あなたが知らない女の方がよいだろう、けれど同時に、いたるところで、ホテルの中で、街角で、バーで、本の中で、映画の中で、あなた自身の中で……見たことのある女の方がよいだろう」[3]

愛の災厄は、この不可能な共同体を築くものである。暴力、過剰、そして夜の死の中で。彼に、「恋人を殺す瀬戸際に立ってみたい。彼を自分の、自分だけのものにしておきたい、彼を奪い取りたい、あらゆる法やあらゆる道徳の支配に逆らってでも彼を盗みとりたい、そんな羨みにも似た欲望を、あなたは知らないでしょう……」という声に、男は知らないと答える。そこに、読解しながら書くブランショが、仮借ない侮蔑にみちた判決と呼ぶものが下されるのだ。「死んだ人って、奇妙ね。」[4]

死の病いの不可能な要請には、他のいかなる消滅も比肩しえない。ブランショはつづけて書いている。「おそらくはただエクリチュールに刻み込まれるそれを除いては。エクリチュールに死が刻み込まれるとき、その死の漂流物である作品とは、営み/作品をなすことのあらかじめの断念にほかならず、ただあらゆる人に対して、そして各人に対して、従って誰に対してでもなく、永遠に来るべき無為の言葉が響きわたるそんな空間を指し示すばかりである」[5]

女の声にある羨みにも似た欲望、恋人を殺し、彼を自分のためにとっておきたいという欲望が別の飛躍をとったとき、恋人たちの共同体はどうなるのだろうか。次のように逆転することで、その飛躍をたどることができるだろう。そこにいたいという欲望、まだあなたが知らないこの欲望――なぜならあなたは不安の歓喜の中で、永遠を信じているとは思っていないし信じたいとも思っていないあなたが、はるか昔から彼女を知っていることを感じとるのだから――あなたを解体しさまよわせるこの焼きたいという欲望、あなたに浸透し、稲妻の幻覚とも動物的恍惚とも、あらゆる他者を消滅の夜の中に潜らせる〈他者〉との同一化とも混同されえない――それはすぐに分かることだが――他者のうちへと滑ってゆきたいという狂おしい欲望を。 あなたはあまりにもこの他者を知っているために、彼女は、あなたを他の人々に対して盲目にすることさえなく、それどころか、あなたの生と諸形式を激化させる。あなたを超えた、あらゆる理性を超えたこの欲望。あなたのあらゆる身振り、あらゆる毛穴、あらゆる滲出、息にいたるまでのあらゆるあなたの匂いが、もちろん、あなたにその不可能な根拠を与えている。あなたはその欲望を知らないというのだろうか。この問いに否定的な返答が返ってきたときには、別の仕方でやはり「愛の秘訣」(ブランショの引用によるダンテ)を失った者を前にしては、このようにつぶやくしかない。「死んだ人って、奇妙ね……」

『死の病い』――愛によって伝染する死という厄介なものと偶然に同時代であり、また、当時のシャンソンのタイトル、結局のところそれほど謎めいてはいない「愛の病い」と、意図せずして奇妙なほど似ている――の問いは、この「生きていないこと」に同様に関わっている。マルグリット・デュラスの物語のなかで、身体の諸々の場が暗示されるのは、自らを知らないこの予感によるのであろうか。読み返すごとに、優美な粗暴さに驚かされる。「彼女は微笑む。彼女は尋ねる。『あなたは私のことも欲してくださるのかしら?』 あなたは言う。『そう。私はまだ識らない。私はそこにもまた深く入り込みたい。しかも私に習慣となっているよう乱暴に。それはもっとずっと抵抗するらしい。それは空虚よりももっとずっと抵抗するビロードなのだと人は言っている』と。意見はない。彼女には知ることができないと彼女は言う。彼にとっての習慣、乱暴さの習慣は、彼ら、彼の同類たち、彼と同じような者たちと共にしか行使されない(「彼らはそのことについて話すのかと彼女は尋ねる。いや違うとあなたは言う。彼らは何について話すのかと彼女は尋ねる。彼らはそのほかのすべてのことについて話す。彼らはすべてについて話すが、それについては話さないとあなたは言う。彼女は笑い、再び眠り込む。」)」ブランショは括弧の中で指摘しているが、同性愛が口にされることはない。死の病いが現れさせるのは、それと混同される同性愛ではない。男たちは「グループをなす者たち」である。女たちによって顕わにされた愛の過剰な真理は、男たちを、それほどの混乱なく解体する。女性的なものは、人がなんといおうと、人がどのように望もうと、秘密の側、明かしえぬものの側に留まるのである。おそらく政治的に厳しいものであるこの問いが、我々が「現在時に無関心である」ことを認めないのであろう。現在時とは? それは、マルグリット・デュラスのテクストの数年後、当時では予見できなかったもう一つの死の病いの伝播のために、愛の諸々の身振りや場が不安に陥る時代でもあり、大衆や、同一のものの反復のために、あらゆる共同体が一時的に終結する時代でもある。世界の内奥性とその忘却、その観想とその転倒(異端主義、侵犯、革命への欲望)がそこで裸出される脆い秘密の絆が、危険にさらされ、禁じられる。現在時とは、ジョー・ボスケの『黒いノート』―女性的身体の秘密(絶対的な、しかし共通の秘密)についての、究極の精神的実践としての盲目的な観想―が発表される時代でもある(ジルベール・レリ「男色、一瞬じっとして、自らの栄光に驚く愛、そして、よりよく思考される愛」)。現在時、それはまた、否定的に、あるいははね返って言えば、平凡な退行が極端に繁茂する時代でもある。極右(ル・ペン)の言説や、主導者たちが「(共産党の)紋切り型の用語〔木でできた言葉〕」(このぎこちない表現がどれほど肛門に由来するものであるか、彼らが未だ気づいていないなどということがあろうか)やもったいぶった修辞を嘲る流行歌の中に見出される、肛門の強迫……

 

「野蛮な夜の悲しみの中…」

現在時、それは結局、重大なことに、今世紀を形容することのできた死者たちが、死んだというよりも殺され、無用となり、空虚というよりもあまりに充全であるという、この瞬間なのである。共産主義communisme共同体communauteコミュニケーションcommunication聖体拝領communionは、致命的な歪曲(共産主義)、過剰−使用や愚かな行為(共同体)、貪欲な膨張(コミュニケーション)、虚偽の退廃(聖体拝領)のために、様々に交錯した拒否の対象となっており、あらゆる良識において、狂気の言語の磁場となっている。『明かしえぬ共同体』の最初のページから、ブランショは次のように述べている。「これらは、歴史が、そして歴史の壮大な誤算が、破産と言うをはるかに超えたある災厄を背景にしてそれらを私たちに認識させる限りで、まさしく一定の意味を帯びた用語である」[6] 彼は、「辱められた、あるいは裏切られた概念」のことは語っていない。それは存在しない。彼はより単純に、より真剣に、これらの用語はもはや「それ自体の――従ってそれ自体に背く――放棄(単なる否定ではない)なしにはしかるべきものとはならない」と述べる。[7] これは、もうひとつの社会やもうひとつの人類の可能性を放棄していない者の言葉である。瞬間的に、この可能性に対して全体的なざわめきが持ち上がるばかりではない。世界の全体的な忘却の中で、この可能性自体が否定され、非常に通俗的に拒絶される。その世界はまさしく、そして慎み深く耐え忍んでいるのだが――飢え、貧困、最小の平等、結局のところ、豊かさと領土の回復よりもそれらの使い方を……

最近のある喜劇によってこの感情を説明しようとする者がいるだろうか。それは、現在時の喜劇である。チェコスロヴァキアの大統領になった作家ヴァツラフ・ハヴェルの、オーストリアの大統領になったナチス協力者クルト・ワルトハイム訪問に、労なくその喜劇を見出すことができるだろう。握手は大目に見よう、握手によって始まるお役所的な恍惚状態も大目に見よう、作家大統領の苦しい戦略(スデトのドイツ人に対する宣言、儀式的な凝り固まった信心、すでに異議に値するすべてのこと)も大目に見よう。典型的なのは、ザルツブルク調馬場での演説である。「致命的な文章で構成されたすばらしい演説」(彼らは、まず始めに子供たちの合唱を欠かさない)、この演説はとりわけその逆転した修辞によって驚くべきものであった。ワルトハイムの隠蔽された過去をほのめかすように、友人たちにせっつかれたハヴェルは、「けっして我々を嘘から救うことの出来ない諸々の嘘」に責任を負わせた。おまけに彼は、致命的に見事な文を付け加えた。「全体的な真理に自由に道を開かないところには全体的な自由はない」。確かに。そして、 「文学、道徳と外交との平衡をとる輝かしい実践」(『リベラシオン』紙)を完成させるために彼は、ワルトハイムについてその目前で語るという力を示すのに成功したことになるのだろう。けっして彼を名指すことなく、遠回しに彼を指すことさえなく、彼のメタファーと例を排他的に、反−共産主義と、はっきりした嘘の告発――地上の社会主義的天国という伝説――のうちから選んで、なかなかよく語った、ということになるのだろう。ところで 、スターリンの修辞(「(共産党の)紋切り型の用語〔木でできた言葉〕」)、暗黙の支配、前提事項による論理、逆転の戦術、暗示の体系、迂回の規則は、正確にはいかに機能していたのだろうか。 嘘からできる限り遠くにとどまるためには、憎しみはどこへ向かうのだろうか。 そして忘却は。歪曲は。

嘘から逃れる唯一の条件は、歴史が投げ込まれた災厄の重大さを孤独に述べる、純粋な拒否のうちにある。その結果、人はもはや、権利を回復した犠牲者たちに、そのことで不平を述べることさえできないだろう。ある錯乱した論理が、彼らのうちで最も危険のない者たち――たとえば、作家大統領――を貫きつづけるとしても。犠牲者たちの彼方で、もうひとつの人類のあらゆる可能性が、より厳しく拒絶されている。その可能性は、強者たちのあの奇妙な盲目や哀れな法によっては形成されることがない。あらゆる人間の欲求が同じように満たされる(「最小限の要請」とブランショは述べている)のでない限り、どんな共同体も、単純に、可能ではありえないということ、これはただ非現実的な観念であるだけとは思われない。この観念には、思考を禁じるもののあらゆる側面がある。共産主義と個人主義の相互性は、必要でありながら事実上宙づりとなっているが、それは結局、共同体の不在を前提とする共同体であり、何よりも到達の射程を越えている。

パスワード

それでも友愛が、見張りとして、望まれる可能性の痕跡として、将来も行動もない至高の作用として残っている。友愛が約束するものの失敗の中で、友愛が友愛自身を越えて担う、エクリチュールの可能性への開きとしての友愛が。もし共同体が、共同体を到達可能にする共通のもの、最初と最後、「それぞれにおいてそうであることをやめる最初と最後の出来事(誕生、死)」によって築かれるのだとすれば、友愛とは、少なくともその出来事の影、あるいはその影の影である。そのイメージの魂、その潜在性、死に授けられ、他人の死によって明かされるその根拠である。死が遠ざかるために一層、友愛は明かされる。友愛は、死の高さに(バタイユ)身を維持することを含意しているが、共同体の失敗においてもその非自然化においても、その可能性にエクリチュールをもたらす。「ある種のエクリチュール」を。

マックス・ブロートの小説で、友人ガルタの死に接した時のクリストフが思い浮かぶ。「彼は無限の部分を保持していた。人は、彼の前では自分が変わってしまうように感じていた。彼を知ったという幸福は貴重な財産だ。ガルタを知ってしまったら、それ以前のように生きることはできない。彼の死の日から遠ざかれば遠ざかるほど、人はそれだけ一層そのことに気づく。奇妙なことに、最初は、それほど回復できない失くしものをしてしまったという感じはもたない。ガルタは、どんなに特別な人物であったにせよ、単純で自然に見えた。そして、この土地は何百人ものガルタを収容しているように思えた。しかし彼の死後、これらのガルタはみな死んでしまったのだということに、人は気づいた。」(『愛の魔法の王国』[8])これもまた、おそらく、明かしえない友愛である。クリストフのうちにマックス・ブロートが認められ、ガルタの描写のうちには、彼の「忘れられない友」、カフカが認められる。

 

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[1] 訳注M.Blanchot, La Communaute inavouable, Editions de Minuit, 1983, p.92.〔西谷修訳、『明かしえぬ共同体』、ちくま学芸文庫版、一九九七年に拠る。〕

[2] M.Blanchot, La Communaute inavouable, Editions de Minuit, 1983. M.Duras, La Maladie de la mort, Editions de Minuit, 1982. J.-L.Nancy, La Communaute desœuvre, Ed.Christian Bourgois.

[3] ブランショは、この「あなた」のうちに、高みから到来する、演出家以上の権威を、「あなたは彼女を知らないだろう」を「あなたは彼女を知っていてはならない」に変えるところまで読み込んでいる。(p.60.)

[4] 訳注]Ibid., p.77.

[5] [訳注]Ibid.

[6] [訳注]Ibid., p.10.

[7] [訳注]Ibid.

[8] M.Brod, Le Royaume enchante de l’amour, traduit par M.Metzger, ed. Viviane Hamy, 1990.